僕の心に小箱が一つ。感情を仕舞っておく場。下手に開かないのなら、優しく、穏和な僕で居る。僕の右手に鍵が一つ。小箱を開く為だけの鍵。けれども日々を円滑に、過ごしたいから使わない。閉じたまんまの心でも、苦しいなんて思わない。けれど君にはこの鍵を、渡すからきっと開いてみせて。#

碌に睡眠薬が仕事をしない鬱屈の深夜、肩背に重くのし掛かる塞いだ気分が些かでも軽減すれば、と自身に乗る重みを基にした小説を書き始めた。だが恐らくは寝不足が持ってきた頭痛がそれを阻み、物語は半端に幕を閉じた。翌朝、君からの連絡。以降、書きかけの物語が前に進む事はなかった。

黒から伸びる手が僕の足首を掴んで離さない。照明をつけた深夜三時、暗い方へ、暗い方へとその手は僕をいざなう。嫌だ、行きたくない、助けてくれ。そんな声を黒い手の持ち主が嘲笑う。「行きたくない、は、生きたくない、の間違いだろう?助けて欲しいのは、生きる苦しみから、だろう?」と。

透明色の正四面体を拾った。持ち帰り照明に透かすと光は何倍にもなり僕の瞳を刺した。眩しくて瞑った目を恐る恐る開くと正四面体の中には人影が一つ。再びそれが強い光を放つ。内部の人影に稲妻のような物が直撃した。間もなく、屋外の遠くから雷鳴。直感する。あの雷は誰かの命を奪うのだと。

死に憧れがちな思春期の或る日、夕陽を背に帰路を歩く僕の影に白く口の様の形が浮いた。驚いているとそいつはにたりと片口角を上げた。あまりの不気味さに駆けて帰るも影は後を付いてきた。此処まで来れば大丈夫、と部屋でへたりこむと、耳元に囁き声がした。「死にたいなら俺が殺してやるよ」

彼は陰と陽の二面を持つ。陰の彼は気弱で、でも優しくて。陽の彼は活発で、でも乱暴者。陽の彼に殴られたり首を絞められたりといった数は知れず、今だって彼の両手に呼吸を束縛され、高笑いを浴びている。若し、陰の彼に絞め殺されるなら本望なのに。私はきっと、彼の半分しか愛せていない。

正気と狂気の境界線は存外に細く脆い物で、正気の持ち主が狂気に足を滑らせる機会は何処にでも在り、また、狂気の持ち主が正気の仮面を被って正気の人々に擬態する事も可能だ。それらは簡単な手順で叶う。然し忘れるな。遊び半分で一線踏み越えれば、戻ってや来られなくなる。

穏やかに流るる小川にそっと笹舟を流した。其処には小さな私の願いを乗せて。いつか彼に想いが届きますように、と。然し笹舟はさしての間も置かず転覆してしまった。乗せた夢が重すぎたのか、叶わないとの示唆なのか。其処で私は決意を抱いた。この声で彼に、きちんと全てを打ち明けようと。

聞きたくない聞きたくない聞きたくない!笑い声も誰ぞの独白も緊急車両のサイレンも料理の際に生まれる雑音も!逃避先は音楽、然し微かな隙間からそれらはすかさず滑り込んで来る。この耳を削ぎ、電脳空間だけに溺れていたい。そうすると何の雑音もこの脳を無遠慮に揺さぶりはしないから。

アガルマトフィリアの青年は言った。己の意思を持ち、自在に動き、欲を持つ人間が憎らしくて堪らないのだと。その理由を問えども彼は優しげに微笑を浮かべるのみ。そして彼は語った。叶わない夢だと理解はしているが、己も人形に成りたいのだと。欲に汚れたこの心を取り出したいのだと。

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